わたしはすでに二回の証しをしましたので、これ以上何かを言うつもりはありませんでした。しかしながら、わたしが祈っていた時、主はもう一度わたしに証しをさせたいのだと感じました。わたしを知っている人たちは、わたしが自分自身の事について、あまり話したがらないのを知っています。わたしは、人がよく他人の証しを誤用したり、あるいはニュースのように広めたりしているのを見ます。それらの証しは、あまり適切ではなく、語る値打ちのないものだと思います。使徒パウロの第三の天の経験は、十四年たって初めて人に発表されました。多くの霊的な証しは、かなりの時間が経過してから公開できると思います。それなのに多くの人は、十四年ではなく十四日も経過していないのに話します。 金銭に関する事柄 金銭の事柄は小さい問題であるかもしれませんし、大きい問題であるかもしれません。わたしが主に仕え始めたころ、自分の生活のことをとても心配していました。わたしが宗派で伝道者になるのでしたら、毎月一定の給料をもらうでしょう。ところがわたしは主の道を歩んでいるので、主に依り頼んで支えられるだけで、一定の給料に頼るわけにはいきません。一九二一年から一九二二年の間、中国全体で主に依り頼んで生活している伝道者は、ほとんどいなかったでしょう。二、三人でさえ捜し出すのは難しく、大多数が給料に頼って生活していました。そのころ、多くの伝道者たちは、全時間で主に仕える大胆さがありませんでした。もし一定の給料が無くなって、食べていけなくなったらどうしようかと、考えざるを得なかったからです。わたしも当時、そのように考えたことがあります。しかし、今日(一九三六年)では、中国でわたしたちと交わりのある兄弟姉妹で、五十名余りの人たちが、完全に主に依り頼んで生活しています。これは一九二二年と比べると、大いに異なっています。今日、各地の兄弟姉妹も、伝道者に対する関心は、以前よりも大いに進歩しています。もう十数年もたてば、兄弟姉妹たちは主の働き人の必要に対して、必ずもっと多く注意するようになるでしょうが、十数年前には、このような光景はあまり見られませんでした。 信仰の生活をする願いを両親に告げる 前に証しをした時に触れましたが、わたしは救われた後、学校で勉強し、またそこで主のために働いていました。ある夜、わたしは父親と、経済援助を受けることで話し合いました。わたしは父に言いました、「わたしは何日間か祈った結果、今後あなたのお金を使うべきではないと言わなければなりません。あなたがわたしのために多くのお金を出してくださったことを感謝します。それは父親としての責任を果たすことでしょう。そして当然、わたしが将来お金を稼いであなたを養うことを望んでいると思います。しかし、前もって言っておきたいのですが、わたしは伝道者になりたいので、将来お返しすることはできません。わたしはまだ学業を終えていませんが、今後は完全に神に依り頼んでいくことを学ぼうと決意しました」。わたしはとてもまじめに言ったのですが、父はわたしが冗談を言っていると思いました。しかし、この後にも、母はときどき五ドル、あるいは十ドルをくれましたが、封筒に入れて「倪析声兄弟へ」と書いてあり、母が子に与えるのではなく、兄弟に与えるのだということを示しました。 わたしがそのように父に言った後、悪魔が試みにやって来て言いました、「このようなことをするのは非常に危険です。もしある日、あなたの生活を維持できなくなって、また父親にお金を下さいと言うなら、どんなに恥ずかしいことでしょう。お父さんに言うのが早すぎました。あなたの働きがもっと進展し、多くの人が救われ、多くの仲間ができてから、信仰の生活をしても遅くはなかったのに」。しかし、主に感謝します。わたしが父の援助を受けないと言って以来、お金を下さいと父にお願いしたことはありませんでした。 神の供給を仰ぎつつ働く 当時、わたしの知っている人の中で、余慈度姉妹は一定の給料をもらっていない唯一の伝道者で、彼女は完全に神に依り頼んで生活していました。彼女はわたしの霊的な姉であり、わたしたち二人はとてもよく知り合っていました。彼女は中国にも海外にも多くの友人を持ち、その働きの範囲はとても広く、至る所で伝道しました。ところがわたしの状況は、その正反対でした。わたしを心にかけてくれる人はとても少なく、この道はとても困難であると感じていました。わたしが主を仰ぎみている時、主は言われました、「もしあなたが信仰による生活をすることができないなら、あなたはわたしのために働くことはできません」。わたしは生ける言葉と生ける信仰をもって、生ける神に仕えなければならない、と認識しました。ある時は、わたしの財布に十数ドルのお金しかなく、間もなくそれも使い尽くされてしまうと、あせっていました。わたしは突然、ザレパテのやもめ女のことを思い起こしました。彼女には、かめに一握りの粉と、びんに少しの油しかなく(列王上十七・十二)、両手いっぱいの食物はありませんでした。神はどんな方法で彼女を養われたのかわかりませんが、神には方法があることを知りました。 一九二一年、わたしは二人の同労者と福建省のある地方へ伝道に行き、そこからまた別の地方へ行こうとしていました。わたしの財布には四ドルしかなく、とても三枚の切符を買うには足りません。しかし、主に感謝します。ある兄弟から三枚の切符を与えられました。 福建省の南部の鼓浪嶼で、わたしはポケットのお金を全部盗まれてしまいました。帰るお金が全くありません。わたしたちはある人の家に滞在して、小さな礼拝堂で毎日、福音を伝えていましたが、その伝道を終えて帰ろうとしている時でした。他の二人の同労者には帰るお金がありますが、わたしにはありません。(わたしたちは各自で自分のお金を使っていました)。彼らが明日帰ることを決めた時、わたしは本当に困りました。しかし、彼らに借りようとは思いません。その夜、わたしは熱心に祈り、神に必要なお金を求めました。だれもこの事は知りません。次の日の午後、ある人たちがやって来て、わたしと神のことについて交わっていました。するとその時、悪魔が試みにやって来て、わたしの信仰を揺り動かそうとしました。しかし、わたしは、神はわたしの事で絶対に間違われないと堅く信じました。その時わたしはまだ青年で、信仰によって神に仕えることを学び始めたばかりでしたから、このような学課を学んだことはありませんでした。その夜、何か間違った事をしてしまったのではないかと思い、このために神に祈っていました。悪魔はわたしに、「あなたは同労者に切符を買ってくれるように頼んで、町に帰ってから返せばよい」と言いました。わたしはこの提案を拒み、また主を仰ぎ続けました。出発の時間です。お金はやはりありません。しかし、わたしは、いつものように荷物をまとめて人力車を雇いました。この時わたしは、一人の兄弟の物語を思い出しました。彼は、自分の乗ろうとしている汽車が間もなく出るというのに切符がなかったのですが、ちょうどその時、神は一人の人を遣わして、彼に切符を与えたのでした。わたしたちはみな準備が整い、三台の人力車に乗り込みました。わたしは最後の一台に乗りました。約四十メートルほど行った時、後ろから一人の長服を着た老人が、「倪(ニー)さん、ちょっと待ってください!」と叫びながら、小走りにやって来ました。わたしは車夫に止まるよう言いました。この老人は、一包みの食物と封筒をわたしに渡して、帰っていきました。その時、わたしは神の取り計らいに感動し、目に涙がいっぱいあふれてくるのを覚えました。わたしが手紙の封を切ると、中に四ドル入っており、ちょうど切符を買うのに十分でした。悪魔は続けてわたしに、「どんなに危険だったことか?」と言いましたが、わたしは答えました、「少し心配しましたが、危険ではありません。なぜなら、神はいつでも必要な時に供給してくださるからです」。わたしが廈門に着いた時、また別の兄弟から帰りの切符が与えられました。 一九二三年、魏光禧兄弟がわたしを、福建省北部の建甌でメッセージをするよう招いてくれました。その時、わたしは十数ドルしか持っていませんでした。これは、旅費の三分の一にもなりません。わたしは金曜日の夜、出発することに決め、水曜日と木曜日の両日、祈り続けましたが、お金は入りませんでした。金曜日の朝、また祈りましたが、お金が来ないだけでなく、むしろ内側には、ある同労者に五ドル、与えるべきである、という感覚があります。わたしは主の言葉を思い起こしました、「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう」。わたしは以前からお金を愛したことはありませんが、その日は本当にお金が惜しくなり、与えるのはとても難しいと感じました。わたしはまた、「主よ、もしあなたが本当に五ドル与えたいなら、わたしはそうしたいです」と言いましたが、内側ではそうしたくありませんでした。サタンはわたしを惑わして、祈ってあげれば五ドルを与える必要がないかもしれない、と考え込ませました。わたしは一生のうちで初めてお金のことで、涙を流しました。とうとう、わたしは主に服従し、五ドルをその同労者に与えました。お金を与えた後、わたしは天の喜びに満たされました。その同労者がどうしてお金をくれるのかと尋ねたので、「聞かなくても、後でわかるでしょう」と言いました。 わたしは金曜日の夜、出発の準備をしていました。わたしは神に言いました、「もともと十五ドルあっても足りなかったのに、あなたはわたしに五ドル出させたので、もっと足りなくなったではありませんか?」。その時、わたしは本当にどのように祈ったらよいのかわかりませんでした。わたしはまず汽船で水口まで行き、さらに小さな木の船に乗り換えて建甌へ行こうと決めました。水口までの旅費はほんの少しで足りました。汽船がもうすぐ着こうとしていた時、わたしは、自分の観念にしたがって祈らなければ、結果はよくなるだろうと感じました。そこでわたしは主に、「わたしはどう祈るべきかわかりません。どうかわたしに代わって祈ってください」と言い、さらに「もしあなたがお金をくださらないのなら、費用の安い船を備えてください」と言いました。水口に着くと、たくさんの小船の船頭が客引きにやって来て、そのうちの一人が七ドルでいいと言うのです。その値段はわたしが思っていたよりずっと安く、普通だったらその何倍もします。わたしは船頭に、どうしてそんなに安いのか尋ねると、彼は「この船はすでにある県庁の人に貸し切られたのですが、もう一人だけ客をわたしの座席に乗せることができるので、船賃はどれだけでもいいのです。でも食べる物は自分で用意してください」と言いました。わたしは初め十五ドル持っていましたが、同労者に五ドルあげて、汽船に乗るのに何十セントか使い、そしてまた小船の船賃が七ドルで食べる物に一ドル余り使いましたので、建甌に着いた時は、まだ一ドル三十セント残っていました。主に感謝し、賛美します! 主の取り計らいはいつも何とすばらしいことでしょう。 建甌での働きが終わって、福州に帰ろうとする時、また問題がやって来ました。というのは、帰りの旅費が十分でなかったからです。次の月曜日、出発しようと思っていましたので、土曜日までずっと祈り続けました。その時、わたしの心には確信がありました。わたしは福州を離れる前、神がいかに一人の同労者に五ドルを与えさせられたか、最初はいかにそれを惜しんだかを思い起こしていました。ちょうどその時、ルカによる福音書第六章三八節を読みました、「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう」。そこで、わたしはこの言葉を捕らえて、神に言いました、「あなたがこの言葉を言われたのですから、その約束にしたがってわたしに必要な旅費を下さるよう求めます」。 主日の夜、ある英国の牧師(フィリップス氏)は、魏兄弟とわたしを夕食に招待しました。彼ははっきりと救われた兄弟で、主を愛していました。食事の時、彼はまず、彼と彼の教団がわたしのメッセージによって大いに助けられたことを述べ、さらにわたしの往復の旅費の責任を負いたいと言いました。わたしは、もうすでに責任を負ってくださる方がいると答えました。わたしの言う意味は、神のことを指していたのです。すると彼は言いました、「あなたが福州に戻ったら、日本で福音伝道者として主に大いに用いられたパジェット・ウィルクス氏(Mr. Padgett Wilkes)の『働きの原動力』(The Dynamics of Service)という本を送りましょう」。わたしは直ちに、良い機会を失ってしまったと思いました。なぜなら、その時わたしに必要なのは旅費であって、本ではなかったからです。そして彼の献金を受けなかったことを、少し後悔しました。ところが食事の後、魏兄弟と一緒に家に帰る時、わたしはフィリップス氏の助けを拒んで、ただ神に信頼しました。ところがわたしの心には、喜びと平安がありました。魏兄弟は、わたしの経済状態を知りません。わたしは彼からお金を借りて、福州に戻ってから返そうかと、かすかに心が動きましたが、神はそれを許されませんでした。わたしは、天の神は永遠に信頼できると深く信じ、また神がいかに供給してくださるかを見ようと思いました。 次の日に出発しましたが、財布には何十セントかのお金しかありませんでした。大勢の兄弟姉妹が見送りに来ていて、ある人はわたしの荷物を持ってくれたりしました。わたしは歩きながら神に祈りました、「主よ、あなたはわたしをここに連れて来られたのですから、わたしを連れて帰られないことがありましょうか」。道のりを半分ほど行った時、フィリップス氏から遣わされた一人の人が、手紙を持って追いかけてきました。その手紙を開くと、それにはこう書いてありました、「あなたの旅費はだれかが負担されたかもしれませんが、あなたのここでの働きにわたしも分があると感じています。この年とった兄弟に、その分にあずからせてもらえないでしょうか? わずかですが、受け取ってくださいますように」。わたしはそのお金を受け取るべきであると思いました。それはわたしの福州までの旅費と、第一号の『現在の証し』誌の印刷費用にも十分でした。 福州に帰ると、わたしから五ドルを受け取った同労者の妻が、わたしに言いました、「あなたは旅に出ようとしていた時、どうして旅に必要なお金をわたしたちに下さったのですか?」。わたしは彼女にどういう事が起こったのかと尋ねると、彼女は答えました、「水曜日に、わたしたちの家には一ドルのお金しか残っていませんでした。それも金曜日には全くなくなっていました。その日、わたしたちは一日中、神に祈っていました。祈りの後、わたしは散歩に出るようにとの感覚があり、こうしてあのようにあなたと出会い、そこであなたが五ドル、下さったのです。そのお金で五日間暮らした後、神はまた別の方面から、わたしたちに供給してくださいました」。彼女は涙を流しながら、さらに続けました、「もしあの日、あなたがあの五ドルをわたしたちに下さらなかったら、わたしたちは飢えてしまっていたでしょう。わたしたちが飢えることはどうでもいいのですが、神の約束はどうなるのでしょうか?」。わたしは彼女の証しを聞いて、喜びに満たされました。主はわたしを通して働かれ、あの五ドルを用いて、彼らの必要に供給されたのです。主の言葉は本当に信実です、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」。 これがわたしの生涯で学んだ学課です。今わたしには経験があるのですが、わたしの手にお金が少なくなればなるほど、神はますます多く与えてくださるのです。これは歩み難い道です。多くの人は、ある時は自分は信仰による生活ができると思いますが、試みがやって来ると恐れてしまいます。あなたがこの信実で生ける神を信じない限り、わたしはこの道を歩むことを勧めません。わたしは今日、神は与える神であると証しすることができます。かつてエリヤがからすに養われたことは、今でも可能な事です。わたしは一つの事を言いたいと思いますが、あなたには信じられないのではないかと恐れます。わたしはよく経験するのですが、わたしが最後の一ドルを使い果たしてしまった時、神の供給が臨むのです。わたしはもう十四年間もこの事を経験してきました。毎回、神が自ら栄光をお受けになりたいのです。神はわたしのいっさいの必要を供給してくださり、決して間違われたことがありません。かつて与えてくれた人も、今はそうしないかもしれません。ささげる人は絶えず代わります。多くの人が他の人に置き換わります。これらすべてのことは問題ではありません。なぜなら、いと高き所におられる神は、生ける神であるからです。神は決して変わることはありません! 今日、あなたがたの益のためにわたしは言わなければなりませんが、それはあなたがたが信仰生活の道を真っすぐに前進するためです。わたしが述べたこのような事例は、さらに十も二十もあります。 お金をささげることについて、あなたがたは一定の額を準備し、神の御手にゆだねるべきです。それは十分の一でも、二分の一でもいいのです。あのレプタ二つをささげたやもめも、生まれつきの面からすれば、少しは惜しんだかもしれません。しかし、彼女は、主から褒められたのです。わたしたちは他の人の模範になるべきです。恐れる必要はありません。神は失敗されることがないからです。わたしたちは神を愛し、神を信じ、神に仕えることを学ぶべきです。わたしたちは神に感謝し、神を賛美するべきです。なぜなら、神には語り尽くすことのできない恵みがあるからです! アーメン。 文字の働きのために神の供給を仰ぎ望む わたしは一九二二年から、福音ビラを印刷し始めました。なぜなら、ある人たちは決して、わたしたちの所まで来て福音を聞こうとはしないからです。ですから、福音を彼らに送り届ける必要があります。わたしはビラの原稿を書いた後、それを印刷し、発行する費用を備えてくださるよう、神に祈り求めました。神はわたしに言われました、「祈りに答えてもらいたいなら、あなたはまずいっさいの妨げを取り除きなさい」。その主日に、わたしは「いっさいの妨げを取り除く」というテーマのメッセージをしました。その当時、多くの人たちが、ある同労者の妻を批判していました。彼女も、わたしたちの間の姉妹でした。集会の後、彼女は扉の所に立っていました。わたしはメッセージをするために入っていく時、彼女を見て、心の内で彼女を批判し、他の人たちが彼女を批判しているのは本当だ、と考えました。メッセージが終わった後、集会所を離れる時、わたしは彼女にあいさつをしました。その後、わたしは再び神に印刷の費用を求め、そして自分はすでにいっさいの妨げを取り除いた、と言いました。神はわたしに言われました、「あなたはどういうメッセージをしたのですか? あなたはあの姉妹を批判しました。それは祈りの妨げです。あなたはそれを取り除き、彼女に罪を告白するべきです」。わたしは答えました、「心の内に隠された事なら、人に告白する必要はないでしょう」。神は言われました、「しかし、あなたの場合は異なります」。わたしは彼女に対して対処しようとしましたが、面と向かうと五回もためらってしまいました。もしわたしが告白すれば、彼女はわたしを尊敬していたのに、きっとわたしを軽べつするだろう、と思いました。わたしは神に言いました、「あなたが言われることは何でもしますが、彼女に罪を告白することだけはできません」。そして引き続き、神に印刷の費用を求めました。しかし、神はわたしのどんな理由も聞かれず、わたしに罪を告白するよう強要されました。やっと六回目に、主の恵みによって、彼女に罪を告白することができました。わたしたち二人は目に涙しながら、告白し合い、赦し合いました。わたしたちは喜びに満たされ、その時から、互いに主にあってさらに愛し合うことができました。 間もなく手紙が届き、その中に米ドルで十五ドル入っていました。手紙にはこう書いてありました、「わたしは福音ビラを配るのが好きです。そして、あなたがビラを印刷するのを助けるべきだと感じます。どうかお受け取りください」。すべての妨げが取り除かれるや、神はわたしの祈りに答えられたのです。主に感謝します! これは、印刷の事で神がわたしの祈りに答えられた最初の経験でした。その当時、わたしたちは毎日、一千枚余りの福音ビラを出していました。毎年、二、三百万枚を印刷して、各地の召会に供給していました。文字の働きが始まってから後、数年間、神はわたしの祈りに答え、わたしたちのいっさいの必要に応じてくださいました。 主はまたわたしに、「現在の証し」誌を出版して、無料で配布するように求められました。その当時、中国全体では、霊的な雑誌はみな有料でした。ただわたしの出した雑誌だけが無料でした。わたしの編集室は小さな部屋で、そこで原稿を書き、それを印刷に回していました。印刷の費用が無くなると、神に供給を求めました。わたしは自分のやっていることを思うと、笑ってしまいました。なぜなら、必要なお金もないのに、原稿が印刷に回されているからです。わたしは一生忘れることができませんが、まだわたしが笑い終えないうちに、ドアをノックする音がしました。ドアを開けると、ある中年の姉妹がいました。彼女はいつも集会に来てはいますが、わたしの心は彼女に対してとても冷ややかでした。彼女はお金を持っている人ですが、とてもお金を愛していて、小さな小銭も大金のように扱いました。わたしは心の中で、彼女が印刷のお金を与えることなどあり得ないと思いました。わたしは彼女になぜ来たのかと尋ねました。彼女は答えました、「一時間ほど前から内側が落ち着かないのです。わたしは神に祈った時、神は、わたしはクリスチャンらしくない、なぜならわたしは献金の事で決してよく行なわなかったし、お金を愛しすぎるからだ、と言われるのです。わたしはどうしたら良いのですかと尋ねますと、主は『あなたは幾らかのお金をわたしの働きのためにささげなさい』と言われました」。彼女はこう言って三十ドルを出し、テーブルの上に置いて、「何でもあなたの必要のためにお使いください」と言いました。その時、テーブルの上を見ると、原稿とお金があります。わたしは彼女に感謝するのではなく、主に感謝しました。彼女が帰ると、わたしはすぐ印刷所へ交渉に行きました。彼女がささげたお金は、一千四百部を印刷するのに十分でした。また別の人が、包装費と郵送費を送ってきました。現在、毎回七千部以上を印刷していますが、すべての費用は、今わたしが述べたような方法で、神が時に応じて供給してくださっています。わたしは決して、人に献金を頼むことはありません。時には、人がわたしにお金を受け取ってくれるようにと求めることさえありました。これらのいっさいの事柄で、わたしはただ神を仰いできました。 キリストに替わって金銭を受け取る 人がもし金銭を正しく処理できなければ、その人はその他の多くの事で必ず失敗します。わたしたちは必ず主だけを仰ぐべきであり、主を辱めるようなことをするべきではありません。人がわたしたちにお金を与える時、わたしたちはキリストに替わって受け取るのであって、決して人に恩恵を求めてはなりません。神に感謝します。わたしは父母に、彼らのお金を使わないと言ってから、なお学校で二年間、勉強することができました。供給はどこから来たのかわかりませんが、必要があると神は必ず備えてくださいました。時には、状況がとても困難のようですが、神は一度も失敗されたことはありません。わたしたちはよく自分の望みを人の上に置きがちですが、神はわたしたちが人に望みをかけることを好まれません。わたしたちは一つの学課を学ぶべきです。それは、収入にしたがって使うことです。わたしたちは死海のように、入り口だけあって出口がないというのでは駄目です。わたしたちはヨルダン川のように、一方に入り口があり一方に出口がなければなりません。旧約のレビ人は専ら神に仕えましたが、彼ら自身も十分の一をささげなければなりませんでした。 (一九五〇年三月十日) 光禧兄弟 心の中ではあなたに手紙を書かなければと思いながら、自分の考えが十分練り上げられていないのを恐れて今まで延ばしてきました。今が時だと思います。わたしは、あなたがこの手紙をへりくだって神の御前に持ち出されるよう望みます。 香港と広州について、問題はとても大きいと思います。すなわちそれは、(一)同労者たちの間においてであり、(二)召会の中においてです。わたしは以下に述べることが、主の恵みにより、そこでの状況を変える助けになることを望んでいます。 (一)指導者たちは、人を愛すること、他の人のために考え、人を顧み、人のために己を捨て、持っているものを人に与えることを学ぶべきです。人の上で己を捨てることができなければ、人を導くことはできません。持っていても持っていなくても、人に与えれば主は祝福されます。 (二)働き人の内側の力は外側の働きに等しいはずです。もし無理に伸ばそうとすることとか、余裕がないこととか、不十分であるとか、緊張するとか、あるいはあふれ流れるものに欠けるとか、主の先を行ってしまうとかは、みなあるべきではない状態です。内側が豊かなときはすべてが流れていて無理がありません。霊的な人のように振る舞うことができても、霊的な人になることはできません。 (三)働きの上では、聞くことを学ぶべきです。使徒行伝第十五章で教えられていることは、聞くことです。あらゆる兄弟たちの考えの中に聖霊の御声があるかもしれないから聞くのです。兄弟たちの声を聞かなければ、聖霊の御声を聞き出すことができないことを、恐れなければなりません。すべての同労者と長老は、座って彼らに耳を傾けなければなりません。彼らに話す機会を必ず与えなければなりません。柔らかであり、砕かれており、聞くべきです。 (四)多くの人の問題は、砕かれていないことです。砕かれるという言葉は聞いたことがあるかもしれませんが、砕かれるとはどういうことかを知っていません。砕かれると、事務的なことについてもあえて断定せず、教えについてもあえて断定しないようになります。人について自分が知っているとはせず、事柄に対しても自分ができるとはしません。権威を取ろうともせず、人に自分の権威を受け入れさせようとも思いません。人がどうであるかをあえて断定せず、またあいまいな対処もしません。砕かれると自分を守ろうとせず、何も振り返る必要がありません。 (五)集会中や召会生活において、あまり緊張しすぎてはなりません。召会の事務は、自分でやりすぎないように学ばなければなりません。多くの事を他の人たちに配分してやらせ、彼らに決定を下すことを学ばせるべきです。事前にはっきりした原則を彼らに述べ、事後、彼らがそれにしたがってやったかどうかを見るのです。自分でやりすぎるのは間違っています。集会の中では注意深く自分を表しすぎないようにしないと、兄弟たちは何もかもあなたがやっていると感じてしまいます。兄弟たちを信頼し、互いに信頼し合うようにしなさい。 (六)神の霊は召会では無理じいできないものです。ただ服するのみであって、そうしなければ油の供給が止まり、召会は疲れを感じ、うんざりしてしまいます。あなたの霊が強ければ、十分以内に聴衆を押し流し、圧倒することができます。霊が弱いと、大声を出しても、おどしても、長い時間をかけても、助けにはならず、かえって害を及ぼします。 (七)メッセージはあまり長すぎたり、多すぎたりしてはいけません。そうでないと、信者の霊は疲れを感じてしまいます。話の内容は、一般的な考え方や、卑しい言葉を避け、幼稚なたとえや、一般に人に幼稚だと感じさせる理屈を避けなければなりません。最も重要なことを三十分以内に言い尽くすように学びなさい。自分ではとても味わい深いと思っていることが、必ず神の言葉だと思ってはなりません。 (八)祈りの集会で試みられることは、メッセージをしたがることです。祈りの集会では祈らなければなりません。語りすぎると良心が重くなり、祈りは失敗してしまいます。 (九)一九四八年、わたしの鼓嶺における対処は、とても例外的なものでした。働き人は多く学んで始めて対処することができます。もしあまり学んでおらず、知識が不十分で、よく砕かれておらず、判断が信頼できないなら、人を対処することはできません。あまり結論を急いではならず、何かをしようとしている時でも、恐れおののいてやらなければなりません。霊的な事をあまり簡単に考えてはいけません。心の中で学びなさい。 (十)自分の判断を信頼しないように学ばなければなりません。正しいと思っていることが必ずしも正しくなく、間違っていると思っていることが必ずしも間違ってはいないからです。へりくだって学んでも、一番早くても何年かかかります。ですから今、自信を持ったり、確信したりすべきではありません。 (十一)あなた自身の判断がまだ信頼すべき段階に至っていない時、人に聞き従われるのは危険なことです。主があなたの上で働いて、あなたの思いが対処され、人が砕かれてはじめて神のみこころを理解でき、権威を取ることができます。権威は主のみこころを知ることに基づきます。主のみこころと目的がないところには権威もありません。 (十二)神のしもべの度量は神によって拡大されるべきで、わたしは神がそのみわざをなしておられるところであると信じます。あなたは内側を見る必要はありません。そうでなければ失望してしまいます。神はあなたに指導の責任を負わせられるのかもしれません。香港の働きに関しては、ある兄弟たちが導かれてそれに加わるかもしれません。わたしたちは安息すべきだと思います。 この手紙は長く書きましたが、主の御前でよくよく注意して読まれることを望みます。わたしはこれらの言葉が難しいことを知っています。主があなたを砕いて、彼の御手の中で役に立つ者としてくださいますように。 主の恵みがあなたと共にありますように! 倪柝聲(ウオッチマン・ニー) 一九五〇年三月一日
「ウオッチマン・ニーの証し」は「ウオッチマン・ニー全集」第26巻に掲載されています。