| ウオッチマン・ニー全集 第一巻 |
| ウオッチマン・ニー兄弟をしのぶ簡潔な序文 聖書の啓示と歴史の証明によれば、神はどの時代にあっても、地上で、彼がご自身のために創造した人々の間で、彼の特別な働きを持っておられます。そして、この特別な働きを達成するために、彼によって選ばれ、成就された特別な人を起こし、この特別な必要に応じさせられます。今世紀において、神の福音が西洋文化と共に東洋にもたらされた時、何百何千の西洋の宣教士たちが、神の委託に応じ、この文化的に古びた中国に来て、キリストの福音のためにすべてをささげました。その中に学問と霊的なことの両面で卓越している人たちが少なからずいました。しかしながら、神のエコノミーとキリストの奥義を、明確にしかも完全な形で宣べ伝えることができる者は多くありませんでした。この状況下にあって、今世紀の初頭に中国が帝国主義国家から民主主義国家へと変わりつつあった時、西洋文化と学問の薫陶を受けた多くの青年たちの中から、神は突如、倪述祖(主に帰された後は、ウオッチマン・ニーと呼ばれた)という名の一人の人を起こし、その時代における神の務めを完成させられました。ニー兄弟は救われた後、主ご自身の顧みと養いを受け、青年の時にすでに、聖書の解説と霊的な教 えに関して極めて卓越し、傑出した者となりました。これらの教えは、中国で主を愛し、追求していた人たちから暖かく歓迎され、多くの青年の信者たちの間に、心からの共鳴と追随を生み出しました。しかしながら、それは同時に、中国キリスト教の中国人および西洋人の指導者を驚かせ、さらにキリスト教の中に反感と反対を少なからず引き起こしました。 ニー兄弟は聖書を精力的に学び、また過去二千年間における聖書解釈に関する名著から助けを受けました。彼は聖書の中の文字の教理を知っていただけでなく、それ以上に聖書の真理の中にある原則、霊的意義、命、そして聖書の霊を認識していました。このゆえに、彼の解説と宣べ伝えは、口頭によるものであろうと書かれたものであろうと、すべて神聖な幻と霊的な啓示を伝えるものです。それは、彼が聖書から受けたものであり、真理、光、命、霊に満ちています。それらは、活発で生き生きとしたものであり、しかも神からの力に満ちています。そして、彼の聴衆あるいは読者は、彼が解説し、宣べ伝えたことに容易に触れ、容易に恵みにあずかり、そのような言葉に応じることができました。 ニー兄弟がその生涯において宣べ伝え、解説したものから、その要点を十二の項目に要約することができます。 一 神に関して 神は永遠なるかたであり、自ら存在し、永遠に存在し、始まりも終わりもなく、あらゆる意味において完全で欠けたところのないかたであることを、ニー兄弟は指摘しました。神は三一であり、その神格において、父、子、霊です。父は源であり、子は表現であり、霊は適用です。子なる神は、父なる神の化身です。一方、霊なる神は、子なる神の実際であり、子なる神を信じた者たちに対して三一の神を適用します。神はまた聖であり、義です。聖は神の内側の性質に言及しており、義は神の外側の行動に言及しています。神は愛であり、光です。愛は、神の内側の性質の要素です。一方、光は、神の外側の表現の要素です。この神は驚くべき知恵を持っておられ、最高のみわざを達成されます。 二 神の永遠のご計画(エコノミー)に関して この驚くべき知恵を持ち、最高のみわざを達成される神は、彼の心の願いにしたがった喜びを持っており、それは彼と一つになり、彼と同じ命、同じ生活、同じ動き、同じ働きにあずかる一群の人を得ることであり、彼が栄光のご自身を彼らを通して表現するためであることを、ニー兄弟は指摘しました。こういうわけで、神は永遠の過去において、彼ご自身の中で永遠のご計画(エコノミー)を意図されました。このご計画において、子なる神は中心性と普遍性となられ、すべての事で第一とされました。このために、神はまた宇宙をその中にある無数の項目と共に創造されました。それは彼がその中に、霊、魂、体から構成される三部分から成る人を器として創造し、神を受け入れさせ、神を表現させるためでした。神はその霊として人の霊の中に入られ、人を再生し、こうして神の命と性質にあずかる彼の多くの子らを生み出し、さらに彼の団体的表現である彼の有機的からだを構成する子なるキリストの多くの肢体たちを生み出されました。それは、三一の神がこの表現を通して、永遠にわたってその豊満における究極的表現を持たれるためです。 三 神の受肉に関して 神は人を創造されたとき、彼ご自身を人の内側に置き、人に神の命と性質にあずからせることをされなかった、とニー兄弟は指摘しました。四千年後になって、彼は子なる神にあって、霊を通して、一人の処女の肉体の中へと入り、受胎され、神聖な性質と人の性質の両方を持った人、すなわち神全部であり、また完全な人でもある神-人となられました。こうして、彼は神を人の中へともたらし、人の肉体の中にあって地上で人の生活を生き、彼の人性の徳を通して、神の特質のすべてを生かし出すことによって神を表現されました。 四 キリストに関して 神聖な三一の第二は、永遠の過去において神によってキリストとされたことを、ニー兄弟は指摘しました。これは神の油塗られたかたです。彼は時間の中で来られて、神がご自身を表現するために意図された永遠のご計画(エコノミー)を達成されました。神は、彼の化身であるこのキリストが、神の永遠のご計画の中心性と普遍性となり、また創造と贖いにおいて万物の上に第一となり、万物を超越することを願われました。神が立てられたこのキリストは、自らをむなしくし、神の形を捨て、奴隷の形を取り、人の様となり、地上において低くされた人の生活を生きられました。神のこのキリストは、人の生活の終わりにおいて十字架へと行かれ、わたしたち罪人のために神の永遠の贖いを達成され、神の永遠の命を解き放たれました。また彼は、死人の中から復活され、神のひとり子から神の長子へと変えられました。さらに、彼は復活において命を与える霊となって、信者の中に入り、彼らを神の新創造と彼の肢体とならせ、彼のからだを構成されました。彼はからだの命、要素、かしらとなられました。このようにして、三一の神はこの宇宙における一つの団体的な表現を獲得されます。来たるべき王 国において、彼は王となり、勝利を得た聖徒たちと共に来たるべき世を統治されます。その後、新天新地において彼は新エルサレムの中心性と普遍性となり、また神と人の相互の住まいとなり、永遠にわたって三一の神の豊満な表現となられます。 五 キリストの死に関して ニー兄弟は、キリストの死が殉教の死ではなく、わたしたち罪人のための身代わりの死であり、多くの意義を持っていることを指摘しました。(一) それはわたしたちの罪を除き去りました。(二) わたしたちのために肉を十字架につけ、こうして古い人を終わらせました。(三) 死の力を持つサタンを滅ぼしました。(四) サタンの支配下にあるこの世を裁きました。(五) わたしたちを互いに分けていたもろもろの規定を廃棄しました。(六) 神がわたしたち罪人の上に置かれた義、聖、栄光のすべての要求を満たしました。(七) わたしたちのために、彼ご自身の内側から神の永遠の命を解き放ちました。 六 キリストの復活に関して キリストの復活は、神によってキリストの内側にある神聖な霊を通して、キリストの体を含む彼の全存在の死人の中からの復活であることを、ニー兄弟は指摘しました。このような復活は、神のひとり子であるキリストを、神聖な性質と人の性質の両方を持った神の長子とならせました。彼の復活はまた、彼を命を与える霊、命の実際である聖霊へと変えました。このかたは彼の信者の中へと入り、彼らを再生させ、彼らの人性を神性の中へともたらし、彼らを神の多くの子たち、彼の多くの兄弟たち、彼の肢体とならせます。彼らは、彼の有機体としての彼の奥義的なからだを構成し、三一の神の化身であるキリストを表現します。この復活の実際は、命の実際である聖霊であり、彼の信者の生活において勝利を得るための力となっており、また彼らを死から復活させ、彼らの体を造り変え、贖う無限の力ともなられるでしょう。 七 永遠の命に関して 聖書の中で述べられている永遠の命とは、神の非受造の命であって、時間と性質の両方において永遠であり、完全であり、欠けたところがないことを、ニー兄弟は指摘しました。神のこの永遠の命は、死を飲み尽くし、死に打ち勝つものであり、また破壊することのできない命でもあります。神のこの命はまた、彼の御子を信じる者たちに対する命としての三一の神ご自身でもあります。わたしたちはこの命によって、神へと結合された、人性と神性の両方を持つ神-人となります。 八 その霊に関して その霊は三一の神の適用であることを、ニー兄弟は指摘しました。その霊は、子なる神を信じ、受け入れた者たちへと到達されます。その霊は、子なる神の中におられる父なる神を彼らに適用します。彼は命の霊であり、命の実際です。彼はまた命を与える霊でもあり、御子を信じた者たちに命を分与されます。このように、彼は再生する霊であり、子なる神の中にある父なる神の命によって信者を再生し、彼らを神の子供たちとならせます。それから彼は、彼らの内側で内住する霊となり、すべての実際となられます。彼は更新する霊であり、神の永遠に新しく、とこしえに古びない命をもって、旧創造の人を神の新創造へと更新します。彼はまた聖別する霊であり、神の聖別する性質によって、信者たちを分離し、聖別します。彼は造り変える霊であり、キリストの命の要素をもって、彼らをキリストのかたちへと造り変えます。彼は、御子を信じた者たちの永遠の分としての、神の初穂、前味わいです。彼は、御子の信者たちの上に注ぎ出された力の霊であり、彼らの働きのための権威となられます。彼は三一の神の実際であり、キリストの実際であり、すべての真理の実際であり、キリストの復活の実 際です。ただ彼を受け入れることによってのみ、人は三一の神を持ち、真理を持ち、キリストを持ち、キリストの復活を持つのです。 九 キリストの贖いと神の救いに関して キリストの贖いは、罪人のための彼の身代わりの、贖いの死を通して達成されたことを、ニー兄弟は指摘しました。わたしたち罪人がこの贖いを受け入れる時、わたしたちは赦され、清められ、義とされ、神へと和解させられます。神はその救いにおいて、キリストの復活を通してわたしたちを赦し、清め、義とし、和解させ、再生し、そして彼の霊を通してわたしたちを更新し、分離し、聖別されます。さらに、その霊は、霊なるキリストの命の要素を通してわたしたちを造り変え、神の長子であるキリストのかたちへとわたしたちを同形化し、最終的には、キリストが入られた神聖な栄光をもってわたしたちを栄光化されます。 神がキリストの死と復活を通して、また聖霊の再生、更新、分離、聖別、造り変え、同形化、栄光化の働きを通して達成されたこの救いは、キリストが再来される時に、神が信者たちに与えられる報酬とは異なります。神の救いは恵みに基づいており、それは律法とは異なります。またそれは、律法にしたがった人の行為に基づいているのではありません。神の報酬は、キリストにある信者が、贖われ、救われた後に生かし出す勝利の生活に基づいています。またこの報酬は、信仰を通してであり、キリストの復活の命によるものであり、聖霊の命を与える力によるものです。この報酬はまた、キリストにある、聖霊による、キリストのからだである教会を建造する働きにも基づいています。それは、神の永遠のご計画(エコノミー)を完成します。神の救いは永遠であり、それはわたしたちを過去の罪、現在の罪の束縛、誘惑、失敗から、新天新地の新エルサレムにおける三一の神のいっさいの豊富を伴う、三一の神の究極的な享受と全き味わいの中へと救うことまでを含んでいます。神の報酬は時期的なものであり、千年王国において、王国の実現の中でキリストと共に支配し、栄光を獲得することに限られ ます。 十 信者に関して キリストにある信者が、三一の神によって、彼のかたちにしたがって、霊、魂、体を持った三部分から成る人として創造されたのは、神の器となり、彼を内容とし、彼を表現し、彼を代表し、彼のために全被造物を治めるためであることを、ニー兄弟は指摘しました。創造の時には、神は彼の命と性質を人の中に入れず、人の中に霊を造られただけでした。それは、人が自分の霊を用いて、霊なる神を命として自分の中に受け入れるためでした。しかし、人はサタンの誘惑の下で堕落してしまいました。彼は神の命令に従わず、サタンによって腐敗させられ、サタンの邪悪な性質を持つようになり、罪人に構成されました。このために、神は自ら人となり、堕落した人の肉を着られました。この人の名はイエス・キリストでした。彼はその肉体にあって人のために死なれ、人をその罪から贖い、こうして罪人の自己をサタン、この世、旧創造と共に終わらせました。彼の死の後、彼の全存在は復活し、復活において彼は命を与える霊へと変えられました。このようにして、彼を信じ受け入れる罪人の中へと彼は入り、彼らと一つになり、こうして彼らを再生して、神の子供たち、肢体とならせ、彼らを彼ご自身 と一つとならせ、彼らを彼の有機的からだへと構成します。これは教会、彼の豊満であり、彼の団体的表現です。 イエス・キリストを信じるこれらの罪人は、キリストの信者となったのであり、キリスト者、すなわちキリストに従う者、キリストに属する者と呼ばれます。彼らは神の旧創造の者でしたが、キリストを信じることによる再生を通して神の新創造となり、神の命と性質を所有し、神の命と彼の霊によって歩き、神のために生き、働きます。彼らは霊の中で共に建造されつつあり、神の教会となります。これは神の家であり、キリストのからだであり、キリストの豊満です。そして、彼らはキリストの再来を待っており、その時には、彼は彼らを携え上げ、変ぼうさせ、彼の栄光の中へと入らせ、永遠に彼と共におらせます。彼らの間にあって、救われた後、キリストの勝利の命によって、また聖霊の中にある復活の力によって、進んで勝利の生活を送り、神のご計画(エコノミー)を達成する働きにあずかり、彼の再来の前に最初に成熟する人は、彼の報酬を受け、千年王国へと入り、彼と共同の王となり、この世を支配します。彼らの間にあって、このように成熟していない人は、成熟するために千年王国において彼の懲らしめを受けます。こうして、彼らは新エルサレムの要素へと構成され、千年王国の後、 新天新地において、最初に成熟した信者たちと共に、永遠にわたって新エルサレムにおける神の救いの究極的な祝福と享受にあずかります。 十一 教会に関して キリストを信じ、キリストに属する者すべてから教会が構成されることを、ニー兄弟は指摘しました。一方において、この教会は宇宙的であり、他方において、地方的です。宇宙的な面においては、教会は宇宙における神の家であり、また宇宙におけるキリストのからだです。地方的な面においては、教会は、神の家とキリストのからだの各地における出現です。これらの各地における出現は、多くの地方教会であり、これらは共に集まって、宇宙におけるただ一つのからだとなります。 神の家としてのこの教会はまた、神の家族、神の住まいでもあり、神に対し、父がその子供たちによって持つ満足と喜びとを得させます。それはまた、神の住まわれる場所でもあり、神に対し、完全にその心を満足させる安息を得させます。このようにして、彼はこの家の中で、彼であられること、彼が持っておられるもの、彼ができることすべてを、自由に表現することができるのです。 キリストのからだとしての教会は、一つの有機体であり、それによってキリストは人の間で動き、歩かれ、またそれを通してすべてを含むご自身を生かし出されます。このからだはまたキリストの花嫁、キリストの配偶者であり、キリストから出て、キリストへと至り、キリストの愛の満足となります。このからだはまた、キリストがご自身の中で創造されたひとりの新しい人でもあり、彼の命と要素によって構成されており、神の永遠のご計画(エコノミー)を成就します。 この教会は人類の間に存在するために、全地へと分散し、多くの個々の地方教会となります。おのおのに、行政のための長老と奉仕のための執事がいます。事務的な事においては、諸教会は自治的であり、分かれていますが、命と性質においては、一つの宇宙的なからだであり、同じ使徒たちの教えを受け、一つの使徒たちの交わりを守り、キリストのための一つの証しを担い、神の一つのご計画(エコノミー)を完成します。 このような教会は、外面的には、この世から神によって召し出された多くの聖徒たちから構成されており、内面的には、三一の神がご自身をキリストにある信者たちの中へと造り込み、成長して出てきた結果です。こういうわけで、それは一つの生ける有機体であり、絶対に社会の宗教組織ではないし、ましてや命のない物質の建築物でもありません。 この教会はまた、今日神の王国でもあり、その中で神はすべてを治め、支配されます。 十二 新エルサレムに関して 最後に、聖書の究極的啓示である新エルサレムが、旧新約のすべての贖われた者たちから構成されていることもまた、ニー兄弟は指摘しました。それは、三一の神の幕屋であり、神が永遠にわたって人と共におられる住まいです。それはまた、三一の神の化身であるキリストの花嫁であり、永遠にわたる彼の愛する配偶者です。この聖なる都はまた、神の至聖所でもあり、その高さ、長さ、幅は同じです。それは神と小羊から構成されており、神の贖われたすべての者が神に仕える場所となり、また住まいとなります。その構成要素は、(一) 三一の神の源である父なる神です。それは新エルサレムの本質であり、透明な純金のようです。(二) 三一の神の表現である子なる神です。それは、彼の贖いの死と命を分与する復活とにあって、新エルサレムへの入り口であり、美しい真珠のようです。(三) 三一の神の適用である霊なる神です。それは、信者たちにおけるその霊の造り変えを通して、新エルサレムの城壁と土台であり、華麗な宝石のようです。このように、新エルサレムは三一の神によって構成されており、神とその贖われ、再生され、造り変えられた三部分からなる人との究極的完成となり、そ こにおいて彼と人とが一つとなり、永遠にわたって彼の団体的な表現と現れとなります。この都では、小羊があかりであり、神の栄光を照らし出します。また、この都の中心には、神と小羊との行政の御座があり、そこから水晶のように輝く命の水の川が流れ出ます。この川は、一本のら旋状の通りの真ん中を流れ、都全体を回って行き巡り、都の周囲にある十二の門へと至り、都全体を養います。この川の両側には命の木が生え、毎月新しい実を結び、都全体を供給します。このように、聖なる都である新エルサレムは、三一の神と彼が贖われた三部分からなる人との結合の頂点です。それは、三一の神の栄光で満ちており、永遠にわたって彼の豊満を表現します。それはまた、三一の神がその贖いにおいて、彼が贖われた者たちに対する供給で満ちています。それは彼らが、彼らを贖われた三一の神であられること、彼がなされたこと、彼が到達されたことすべての、全き享受と全き味わいとを持つためです。このことすべてが、ニー兄弟が見、わたしたちに伝えてくださった神聖な啓示の要約です。 ニー兄弟が全聖書から宣べ伝え、語ったことは、広く、深く、広範囲にわたるものです。しかし、以上の十二項目が、その中心であり、道であり、目標です。わたしはクリスチャン生活の最初の三十年間に、ニー兄弟のすべての著作を読みました。その後の三十数年の間にも、わたしはクリスチャンの働きの行程において、それらを振り返り、読み返し、彼の著作を参考にし、用いてきました。わたしが受けた益の豊かさと、わたしが受け継いだ恵みの多さは、ただ三一の神の新創造の傑作によってのみ、無限の永遠にわたって完全に表現され得ます。わたしが切望することは、すべての読者が主から恵みを受け、ニー兄弟の著作をその中心、道、目標とすること、すなわち彼らの信仰の中心、彼らが走る競走の道、彼らの追求の目標とすることです。それはわたしたちすべてが、このような満ちあふれる恵みに共に浴するためです。ニー兄弟は眠られましたが、どうか彼の言葉がやむことがありませんように。ウオッチマンはもはやわたしたちと共にはおられませんが、どうか彼の声を聞き、そして明けの明星が上り、夜の影が消え去るにまで至りますように。ここに謹んで、この簡潔な序文をささげ、著者 であるウオッチマン・ニー兄弟をいつまでも覚えることとします。 一九九一年七月二十四日 受益者ウイットネス・リー敬白 アメリカ合衆国カリフォルニア州アナハイムにて |