ウオッチマン全集 第十二巻
目 次

   ウオッチマン・ニー全集 第一期 初期の著作
         (一九二二年―一九三四年まで)
第十二巻 霊の人(一)
前書き
第二版序文
序文
後書き
重要語句一覧
第一部 霊、魂、体に関する概論
第一章 霊と魂と体
第二章 霊と魂
第三章 人の堕落
第四章 救いの方法
第二部 肉
第一章 肉と救い
第二章 肉的なクリスチャン
第三章 十字架と聖霊
第四章 肉の誇り
第五章 肉に対する信者の最終的な態度
第三部 魂
第一章 罪から解放される道と魂の命
第二章 魂的な信者の経験
第三章 魂的な生活の危険性
第四章 十字架と魂
第五章 霊的な信者と魂
前書き


 
本書は、三巻に分けられており、十の区分から成っています。本書の執筆は、一九二五年の後半から始まり、一九二七年の六月に完了しました。
 本書の性質についての著者自身による以下の説明は、「現在の証し」誌第三号のお知らせから引用されています。
 「本書は、霊的な実際に特別な強調を置いています。ですから、各巻で扱われていることはすべて、経験によって立証されることができます。そこにはむなしい言葉は一つもありません」。
 「今日、信者たちにとって最も妨げとなる経験は、霊的な行程における前進を求めることにおいて、適切な道を見いだせないことです。その結果、彼らは暗やみの中で手探りし、時には高くなったり、時には低くなったりして、分かれ道となる所で絶えずぐずぐずし、導きを求めて相談する人もいないのです。本書の著者もそのような者でした。この理由により、本書は、適切な行程についてのはっきりとした導きを強調します。本書のあらゆる章は、信者たちを正しい道へと導くためにあります。ですから、誠実な心をもって神を追い求めるすべての人たちは、それにしたがって一歩一歩進むことができます。ほとんどすべての章は、罪人の立場から始まって、霊的な命の高嶺に向かって一歩一歩と進みます」。
 「本書全体は、広い範囲を取り扱っています。信者が知りたくても答えを見いだすことができない霊的な命に関するあらゆる質問が、ここで説明されています。例えば、神の御声を聞くとか、神のみこころを理解するなどの難しい事柄が、すべて明確に説明されています。本書を読んだ後、主要な霊的問題はすべて、完全に解決されるでしょう」。
 「再生、救い、聖別、自己を否むこと、聖霊と力で満たされること、その霊のバプテスマ、交わり、祈り、聖書の学び、死における同一化、肉、魂の命、感情、超自然的な経験、奇跡、異言における真実の語りかけと偽りの語りかけとを識別すること、直覚、良心、神の啓示、霊的な働き、サタンとの戦い、悪霊、悪鬼にとりつかれること、自由な意志、思いが新しくされること、受動性、献身、熱愛、冷たくなったり熱くなったりする感覚、体、病、死を逃れる方法、その他無数の題目が、最も深く、また同時に最も簡単な方法で説明されています」。
 「もし信者が正しい霊的な道を歩みたければ、本書を読まなければなりません。だれでも、他の人を助け、彼らの真の状態を解き明かしてあげようとするなら、やはり本書を読まないわけにはいきません」。
 「本書を読む人はすべて、通常見逃されてきた多くの題目についてさえ、光を見いだすでしょう。再生のようにありふれた事柄でさえ、以前は考えもしなかったような方法で理解されるでしょう」。

第二版序文

 主に感謝します。一九二八年の秋に本書が出版されて以来、各地の信者がそれを注文してくださいました。短期間のうちに、第一版は売り切れてしまいました。多くの人々が、本書に記録された真理を通して、解放されることをいかに経験したかを、わたしたちに大胆に告げてくださいました。これによってわたしたちは、わたしたちに対する神の委託が無駄なものではなかったことを認識します。本書が神の子供たちによって受け入れられた方法のゆえに、わたしたちは本当に主に感謝しなければなりません。
 その時以来およそ二年間、わたしたちは本書を完全な三巻セットで提供することができませんでした。もともと、わたしには第二版を印刷する意図はなく、二千部が発行されればそれで十分であると思っていました。同時に、わたしは性急に第二版を出すことをためらっていました。なぜなら、わたしは本書の真理の働きがどれだけ多くの結果を生み出すかを見たかったからです。しかし、過去二年の間に、本書に対する要望が数百通もありました。わたしたちはまた多くの人々の証しから、本書の真理が実行可能であり、それは人に自由を与え、それこそが神の子供たちの必要としているものであることを見てきました。このゆえに、わたしたちは再刷するのを遅らせることはできないと感じています。
 この版は、教えや真理においては第一版とあまり異なりません。しかしながら、わたしが第一版を著した時にはあまりはっきりしていなかった点につき、新しい光や新しい感覚を受けたために、この版においては労力を費やして多くの変更や追加をしました。このような編集の働きにおいて、わたしは主の助けを求め、聖書で用いられている用語と本書で用いられている用語とが一致するように最善を尽くしました。
 わたしたちが用いる用語と聖書で用いられている用語とがしばしば異なっていることを、わたしたちは知っています。例えば、主イエスの十字架上での働き全体について、わたしたちは「贖い」という用語を用いています。しかし、「贖い」という言葉の聖書的な意味は、罪を覆うことだけに限定されています。
 このゆえに、わたしたちにとっては正しいと思われる用語も、聖書によって判断するなら正確でないものも多くあります。例えば、わたしたちはみな、「罪に打ち勝つこと」、「自己を十字架につけること」、「魂の命を十字架につけること」などの表現や、それらが何を指しているかを知っています。しかし、これらの表現は、聖書の中には見いだされません。聖書にはこのようなものはありません。聖書が語っているのは、「罪に打ち勝つこと」ではなく、「罪から解放されること」、「罪から自由になること」です。神の救いの方法は、わたしたちが罪に打ち勝つことではなく、わたしたちの古い人を十字架につけ、わたしたちが罪と罪の力から解放されることです。(本書が「罪に打ち勝つこと」という表現を用いる時、それは単に人の経験を指しているのにすぎません。)なおまた、聖書は、わたしたちが「自己に対して死ぬ」べきであると言っているのではなく、わたしたちが「自己を否む」べきであると言っています。人は、「自己を十字架につける」のではありません。自己は、「十字架を取り上げる」ことによって対処されるのです。それは、自己がわたしたち自身の人格であり、決して十 字架につけることができないからです。いったん自己が死んでしまうなら、わたしたちという人も死ぬのです。自己は、わたしたちという人です。このゆえに、わたしたちは自己を否み、十字架を取り上げて、それを対処することができるだけです。十字架を担うことの意味は、死ぬことではなく、死ぬことを願うことです。同様に、聖書は決して「魂の命を十字架につける」とは言わず、ただ「魂の命を失う」と言うだけです。というのは、もしわたしたちの天然の命が十字架につけられるなら、わたしたちの身体の命もなくなってしまうからです。
 このことは、わたしたちが第一版ではこれらの違いに気がついていなかったことを意味するのではありません。しかしながら、わたしたちは、もしわたしたちが霊的な事実と原則において正しければ、外側の用語はあまり重要でないと考えていました。わたしたちは今回の変更をしている時でさえも、これらの誤りをすべて正そうとはしませんでした。最近の数日間、主はわたしたちに、この問題に特別に注意するよう思い起こさせてくださいました。彼はわたしたちに、いかに不正確な用語が人々を不正確な真理へともたらし得るか、またいかに用語の正確さも同じように重要であるかを示してくださいました。もちろん、わたしたちは正確な用語よりも霊的実際を持つべきです。しかし、わたしたちに霊的実際がある時は、正確な用語を持つことも価値があり、そして正確な用語がわたしたちに新しい光を与えることは、言うまでもないことです。このゆえに、わたしたちは多くの所で、わたしたちの用語を変えました。わたしは、わたしたちの他の出版物においても同じことを行なうことができるようにと望んでいます。
 わたしは読者の方たちに、わたしたちにおける真理の主観的結果に注意を払っていただきたいと思います。この理由により、わたしは客観的真理については多くのことを述べませんでした。これが本書の性質です。わたしは主観的真理があまりにも少なすぎると感じていたために、この書を書き始めたのです。ですから、本書で述べられたさまざまな真理は、本書で述べられたことがすべてではないことを、読者は知っておくべきです。それらは、これらの真理の主観的な面における解釈にすぎません。
 しばらくすれば、再び本書が出て、主が割り当てられた働きを行なうことでしょう。この重大な時に、わたしはただ自分の書いたものがいかに不十分であるかを感じるのみです。神の真理は、常に人の手において損失を被ります。わたしはただ、すべての栄光が神に帰され、すべての恥がわたしに帰されるようにと言うだけです。どうか神が、彼が祝福されるものを祝福してくださいますように。

                  一九三二年五月三十日 上海にて 著者