ウオッチマン・ニー全集第三十巻
目 次

ウオッチマン・ニー全集 第二期 中期の著作
      (一九三四年から一九四二年まで)

第三〇巻 正常なキリスト者の召会生活

序言   
英語版への序言 
序文   
第 一 章 その務めと執事たち
第 二 章 使徒たち 五八
第 三 章 使徒の出発とその足跡
第 四 章 使徒が任命する長老
第 五 章 使徒が設立する諸召会
第 六 章 合一と分裂の根拠
第 七 章 働き人たちの間
第 八 章 働きと召会
第 九 章 経済の問題
第 十 章 地方召会の組織

序言

 この全集の第三〇巻の内容は、イギリス英語の句読点用法、表現方法、慣用語法、綴り方などを若干改めた以外は、一九三九年に英国でウオッチマン・ニーが「わたしたちの委託について」という書名で発行した版から直接引用されています。一九三九年の英語版は、ウオッチマン・ニー自身が英語で執筆したものであり、彼が翻訳と編集の直接の責任を負いました。英語版と中国語版との間に何らかの違いがあれば、それはウオッチマン・ニー自身が改訂したものです。第三〇巻の内容は、別に「正常なキリスト者の召会生活」という書名で、すでに日本福音書房によって発行されています。
序文
本書を理解するための重要な事柄

本書の内容は、上海と漢口で最近持たれた特別集会で、わたしが若い同労者たちに対して語った多くの語りかけの記録です。メッセージが語られた時、本書はまだなく、わたしの聴衆が目の前にいるだけでした。このメッセージはわたしの若い同労者たちを導くことを意図しているという事実のゆえに、そのメッセージは実行的な性質が強く、用いられた言葉遣いは平易になっています。わたしたちはこれらの二つの特別集会において、第一に、神の召会と働きに関する神の御言の教えを調べることに努め、第二に、わたしたちが見いだした光によって、わたしたちの過去の務めを再検討することに努めました。
 この語りかけは若い兄弟たちにとって価値のあることが証明されました。そして、手書きのノートが取られていたため、そのメッセージは他の人たちにも分け与えられました。その結果、語られたものを書物にしてほしいとの多くの要望が寄せられました。その特別集会の出席者は、おもにわたしの若い同労者であったために、わたしは自由に彼らに教え、助言しました。また、個人的で極めて微妙な多くの問題を、とても自由に話し合いました。もしもっと多くの聴衆や一般の人々を意図して語ったのであれば、わたしは自分が語った多くの事柄を削除したり、全く異なる口調で語らなければならないと感じたはずです。本書を出版することを提案された時、わたしは当然ためらいました。しかし、主は、そうすることが主の思いであることを明確にしてくださいました。ですから、わたしはただ黙って従うほかに選択はありません。わたしは、元の語り口調の文体を保つ考えに疑問を抱いていました。そこでは、少しばかり年長の兄弟が助言しており、また全く異なる個人的な口調で語られています。しかし、多くの友人が、より個人的な部分によって特別な助けを受けたことを証ししてくださった時、わ たしは、もしそれらを取り除けば本書の最大の価値が失われてしまうことを認識しました。ですから、わたしは、語ったものを幾らか改訂して出版しますが、それらは文体においても内容においても、当初語られたものと全く同じままです。
 本書の読者は、これらのメッセージが与えられたのは自分たちのためではないことを心に留めてくださると、わたしたちは信じています。これらは専ら、わたしの最も親密な働きの仲間である、内側の人々のためのものでした。しかし、要望により、わたしたちは自分たちが見いだしたものを、わたしたちのすべての兄弟たちである、より広い範囲の人々と分かち合います。本書は、非公開のものを公開したものであり、もともとは少数の人のためのものが多数の人へと拡大されたものです。ですから、より広い範囲の一般の人々にふさわしくないと思われるものがあったとしても、わたしたちの読者は許してくださると、わたしたちは信じています。
 ここでわたしたちは、本書の教えの占める地位を、神聖な真理の大いなるまとまりにおいて指摘したいと思います。というのは、前者が霊的価値を持つのは、それらが後者との関連において保たれる時だけだからです。過去十八年間に、主はわたしたちをさまざまな経験を通して導いてくださいました。それはわたしたちが、十字架と復活の事実だけでなく、少しばかりの原則を学ぶためであり、そして、キリストの命の何か、イエスの頭首権、からだの団体的生活、神の王国の地位、神の永遠の目的を学ぶためです。ですから、当然のことながら、これらの事柄がわたしたちの務めの負担となっています。しかし、神のぶどう酒には、それを入れるための皮袋がなければなりません。神聖な模範においては、人の決定には何も任されていません。神自らが、ご自身のぶどう酒のために最上の皮袋を用意されました。それはぶどう酒を入れ、保ち、それが失われたり、妨げられたり、誤って伝えられたりしないようにします。神はご自身のぶどう酒をわたしたちに示してくださいましたが、ご自身の皮袋をもわたしたちに示してくださいました。
 わたしたちの働きは、この数年間、ある特定の原則にしたがっています。しかし、今日に至るまでわたしたちは、それらを定義したり教えようとしたりしませんでした。むしろわたしたちはその霊の力の中で、わたしたちの心にとってとても貴重であるこれらの真理を強調するように努めてきました。それらは、信者たちの霊的命や神の永遠の目的ともっと直接的な関係があると、わたしたちは信じています。しかし、主への奉仕において、これらの真理の実行的な外面の働きも、決して重要でないわけではありません。それらがなければ、すべての事柄は理論の領域にあり、霊的な前進は不可能になります。ですから、わたしたちは神の恵みによって、神の良きぶどう酒を与えるだけでなく、それを保つために神が備えてくださった皮袋を与えることも求めるのです。ですから、本書で説明されている真理は、十八年にわたるわたしたちの務めを通して教えられた事柄と関連づけて、それらの事柄の前置きとしてではなく、結果として考えなければなりません。
 本書の範囲内において、本書の主題に関するすべての質問を取り扱うことは不可能でした。あるものは、わたしがすでに別の所で取り扱い、またあるものは、後日取り扱いたいと思っています。「わたしたちの委託について」の書名は、本書の性質を説明しています。これは、福音伝道の方法に関する専門書ではなく、わたしたちの過去の働きを神のみこころの光の中で再検討するものです。というのは、わたしたちは神のみこころを神の御言の中で見いだしたからです。主はご自身の霊によって、主に対するわたしたちの過去の奉仕を、最も恵み深く導いてくださいましたが、わたしたちは、神聖な働きのすべてを支える土台に関して、さらに明確でありたいと願いました。わたしの若い兄弟たちの主要な必要は、その霊から導きを受け、また啓示を受けることであることを、わたしは認識しましたが、彼らの務めすべてのためには、聖書の堅固な基礎が必要であることも、無視できませんでした。ですから、わたしたちは自分が行なってきた事柄について、また自分が行なってきた方法について、自由に話し合い、わたしたちの働きと方法を、神が御言によってわたしたちの前に置かれたものと比較しよう と努めました。わたしたちは、自分が採用した手段に対する聖書的な根拠と、わたしたちが追い求める目的に対する聖書的な正当性を調べました。そして、観察と経験によってわたしたちが学んださまざまな学課を、書きとめました。他の人々の労苦を批判する意図はありませんし、神の働きをどのように行なうべきかについて、他の人々に何か提案する意図さえもありません。わたしたちは、神の御言から、経験から、観察から、これからの日々において働きをどのように行なうべきかを学びたいだけだったのです。それはわたしたちが、「神に良しと認められた」働き人となるためです。
 本書は、働きから諸召会を見ているしもべの立場から書かれています。本書は、わたしたちが主によって召されていると信じているその特定の務めを取り扱うのではなく、働きの一般的な原則を取り扱うのにすぎません。また、「キリストのからだである召会」を取り扱うのでもありません。そうではなく、諸地方召会を取り扱うのであり、また諸地方召会と働きとの関係を取り扱うのです。本書「わたしたちの委託について」は、働きの原則や召会の生活については触れておらず、書名が示しているとおり、わたしたちの委託について再検討するものにすぎません。
 本書で述べられた真理は、過去数年間において、徐々に学び取られ、また実行に移されました。より大きな光を受けたために、数多くの調整がなされています。もしわたしたちがへりくだり続け、神が続けてわたしたちにあわれみを示してくださるのなら、将来はさらに多くの調整がなされると、わたしたちは信じています。主は、働きにおける数多くの仲間を、恵み深くわたしたちに与えてくださいました。彼らすべては、本書で述べられた根拠に基づいて遣わされ、彼らの労苦を通して、中国のさまざまな場所に数多くの召会が設立されています。これらの多くの召会においては、状況は大きく異なっており、また召会につながっている信者たちも、背景、教育、社会的地位、霊的経験において大きく異なっていますが、わたしたちが見いだしたことによれば、もしわたしたちがイエスの頭首権の下で、召会の形成や行政について天的模範を見るようにするなら、聖書的方法も実行的になり、実を結ぶようになります。
 本書自体はキリスト教の技術的な面を取り扱っているように見えるかもしれませんが、ここでわたしたちは、自分たちは単なる技術的な正確さを目標としているのではないことを、強調したいと思います。わたしたちが求めているものは、霊的な実際です。しかし、霊性は、理論の問題ではなく、常に実行という結果になります。そして、本書が取り扱っているのは、実行的な外面の働きの中にある霊性です。
 外面の完全な正確さを目標にはしても、重要であり霊的である事柄はほとんど顧みない人々と話をすることは、わたしにとって、嫌悪を感じるほどではないにしても、うんざりしてしまいます。福音伝道の方法は、それ自体としてはわたしに何の興味も引き起こしません。実は、深く嘆くべきこととは、人の天然の力で生きる生活がいかに憎むべきものかについて、実行的には何も知らない神の子供たちに出会うことであり、またイエス・キリストの頭首権に関する重要な経験についてはほとんど知らないのに、神に奉仕する方法の絶対的な正確さに到達することにいつも周到に注意している神の子供たちに出会うことです。多くの時、わたしたちは次のように言われました、「わたしたちはすべてのことであなたがたに同意します」。とんでもないことです! 実際、わたしたちは全くそうではありません! 自分たちの方法を改善して自分たちの働きを改善することは願っても、自分たちと主との関係を調整しようとしない人たちの手には、本書が渡らないようにと、わたしたちは望みます。しかし、本書が、その霊の力の中で生きることを学び、肉に確信を持たないへりくだった人たちへのメッセージと なることを、わたしたちは望みます。
 皮袋を持ってもぶどう酒がなければ死ですが、ぶどう酒を持っても皮袋がなければ損失になります。わたしたちは、ぶどう酒を持った後は、皮袋を持たなければなりません。パウロはエペソ人への手紙を書くことができました。しかし、彼はまたコリント人への手紙も書くことができました。コリント人への手紙は、エペソ人への手紙の真理を実行的な表現でわたしたちに提示するのです。そうです、エペソ人への手紙の著者は、コリント人への手紙の著者でもあったのです! 神の子供たちは、エペソ人への手紙の真理については激しい論争をしたことがないのに、コリント人への手紙の真理についてはいつも激しい論争をしているのは、なぜでしょうか? エペソ人への手紙の範囲は天であり、その真理は純粋に霊的なものであるために、それらに関してさまざまな意見があったとしても、だれもあまりそれを感じません。しかし、コリント人への手紙の教えは実行的であり、地上の領域に触れることであるため、ほんのわずかな意見の違いがあれば、直ちに反応して感じるのです。そうです、コリント人への手紙はとても実行的です! そして、エペソ人への手紙以上にわたしたちの従順さをテストする のです! 
 命と実際についてほとんど知らない人たちが陥る危険性は、単なる外側の正確さを強調することです。しかし、命と実際を最高に重要な事柄であると考える人たちが陥る誘惑は、物事の神聖な模範を投げ捨てて、それを律法的で技術的なことであると考えてしまうことです。彼らは、自分たちはより大いなるものを持っているのだから、より劣るものはなくてもよいと感じます。その結果、人は霊的になればなるほど、さらに自由に、自分でふさわしいと思うままに行なうことができると感じます。彼は、外面的な事柄について決定する権威が自分自身にあると考えます。そして、それらに関する神の命令を無視することが、自分が律法主義から解放されていることと、その霊の自由の中を歩んでいることの表れであると、想像するのです。しかし、神は、わたしたちの内なる命に関する真理だけを啓示されたのではありません。神はまた、その命の外側の表現に関する真理をも啓示されました。神は内なる実際を重んじられますが、その外側の表現を軽んじることをされません。神はわたしたちに、エペソ人への手紙、ローマ人への手紙、コロサイ人への手紙を与えてくださいましたが、使徒行伝、テモテへ の手紙、コリント人への手紙をも与えてくださいました。わたしたちは、キリストの中にあるわたしたちの命に関しては、ローマ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙さえあれば、神は十分にわたしたちを導くことができると考えるかもしれません。しかし、神は、どのようにしてご自身の働きを行なうか、またどのようにしてご自身の召会を構成するかについては、使徒行伝、コリント人への手紙、テモテへの手紙を通してわたしたちを導くことが必要であると考えられます。神は、人の想像や人の思いには何も任せておられません。人は、思慮の浅いしもべを使うことを恐れますが、神は、過度に思慮の深いしもべを使うことを求められません。神が人に要求されるすべては、単純な服従です。パウロは、「だれが彼(主)の参謀になったでしょうか?」と問いました(ローマ十一・三四)。人は地位に着くことを喜びますが、神は参謀を必要とされません。神聖な働きがどのようになされるかについて、自分が思うことを提案することは、わたしたちの立場にありません。しかし、わたしたちはすべてのことにおいて、「主のみこころは何でしょうか?」と尋ねるのです。
 パリサイ人は、皿の外側は清めましたが、内側は汚れで満ちたままでした。わたしたちの主は、パリサイ人が外側の事柄を非常に重んじたのに、内側の事柄を軽んじたことをしっ責されました。ですから、神の民の多くは主のしっ責から、わたしたちが霊的真理の内側の面を強調しさえすればそれで良いと結論づけます。しかし、神は、内側と外側の両方の清さを要求されます。内側のものなしに外側のものを持つことは、霊的な死です。しかし、外側のものなしに内側のものを持つことは、霊的にされた命にすぎません。そして、霊的にされることは、霊性ではありません。わたしたちの主は言われました、「これこそ行なうべきことである。もちろん、ささげ物もなおざりにすべきではない」(マタイ二三・二三)。神聖な命令がどれほど無意味に思われようとも、それは神のみこころの表現です。ですから、わたしたちは決してそれを軽々しく取り扱ったりしません。わたしたちは、彼の最も小さい命令を軽んじてそれで良しとすることはできません。彼の要求の重要性は異なるかもしれませんが、神から出て来たすべてのものには、永遠の目的と永遠の価値があります。もちろん、礼拝の外面的な形式を 単に順守することには、何の霊的価値もありません。霊的な真理のすべては、内側の命に関することであれ外側の命に関することであれ、正しく認められるべきです。すべて神から出て来たことは、外面のことであれ内面のことであれ、それがその霊の中にあるなら命です。それが文字の中にあるなら死です。ですから、問題は、それが外面のことであるか内面のことであるかではなく、それがその霊の中にあるか文字の中にあるかです。「文字は人を殺しますが、その霊は人に命を与える」(Uコリント三・六)。
 わたしたちの願いは、神のすべての御言を受け入れ、それを言い表すことです。わたしたちは、パウロと共に次のように言えることを切望します、「わたしは、あなたがたすべてに神のみこころを、しりごみすることなく言い表したからです」(使徒二〇・二七)。わたしたちは、神の霊の導きに従うことを求めます。しかし、それと同時に、神の御言の中で示されている模範に注意を払うことも求めます。その霊の導きは尊いものです。しかし、もし御言の模範がなければ、容易にわたしたちの誤りやすい思いと根拠のない感覚がその霊の導きに置き換わってしまい、そして誤りへと陥り、しかもそれに気づかないのです。もし人があらゆる面において神のみこころに服従するよう備えられていないなら、容易に神の御言に反する事柄を行なってしまい、それでも自分は神の霊から導きを受けていると思ってしまうのです。わたしたちは、その霊の導きと御言の模範の両方に従う必要があることを強調します。なぜなら、わたしたちの方法を書かれた御言と比較することによって、わたしたちは自分の導きの源を見いだすことができるからです。その霊の導きは、常に聖書と一致します。神は、使徒行伝におい てある方法で人を導き、今日は別な方法で人を導くということはあり得ません。外面的な事柄においては、導きは多岐にわたるかもしれません。しかし、原則においては、それは常に同じです。なぜなら、神のみこころは永遠であり、それゆえ変わることがないからです。神は永遠の神です。神は時間を認められません。そして、神のみこころと方法はすべて、永遠のしるしを帯びています。こうであるので、神は、ある時はある方法で行動し、後になって別の方法で行動するということは、決してあり得ません。状況や実情は異なるかもしれませんが、原則においては、神のみこころと方法は、使徒行伝の時代と今日も全く同じなのです。
 神はイスラエル人に、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、妻を離縁することを許した」(マタイ十九・八)と言われました。しかし、主イエスは、「神がくびきを共にさせたものを、人は引き離してはならない」(マタイ十九・六)と言われました。ここに食い違いはないのでしょうか? ありません! 「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、妻を離縁することを許したのだが、初めからそうだったのではない」(マタイ十九・八)。それは、神が変わり得る神であるかのように、初めは許されていたのが、後に禁止されて、そして再び許されたというのではありません。違います。主は言われました、「初めからそうだったのではない」。これは、神のみこころが決して変わらなかったことを示しています。初めから今日に至るまでずっと、それは全く同じです。ここに最も重要な原則があります。もしわたしたちが神の思いを知りたいのであれば、わたしたちは創世記の神の命令を見なければならず、後になって神が許可されたことを見てはなりません。なぜなら、後になって許可されたことにはすべて、「あなたがたの心がかたくななので」という説明が付いているからです。わたした ちが見いだしたいものは、神が指示されたみこころであって、神が許可されたみこころではありません。わたしたちは、神の目的が初めはどうであったかを見たいのです。わたしたちが見たいのは、神の思いから全く純粋な状態において出て来た時のそのままの状態の物事であって、神の民の側の心のかたくなさのゆえにそれらがどうなったかではありません。
 もしわたしたちが召会に関する神のみこころを理解したいのであれば、神がご自分の民を昨年、あるいは十年前、あるいは百年前にどのように導かれたかを見るのではなく、初めにまで戻り、すなわち召会の「創世記」にまで戻って、その時に神が何を語られ、何を行なわれたかを見なければなりません。そこにおいてわたしたちは、神のみこころの最高の表れを見いだします。使徒行伝は、召会歴史の「創世記」です。そして、パウロの時代の召会は、その霊の働きの「創世記」です。今日の召会の状況は、当時とは多くの点で異なっています。現在の状況は、わたしたちの模範やわたしたちの権威ある導きとなることは決してできません。わたしたちは初めに戻らなければなりません。神が初めにわたしたちの模範として語られたものだけが、神の永遠のみこころです。それが常に神聖な標準であり、またわたしたちの模範であるのです。
 神がご自身の御言の中でわたしたちに与えてくださった模範に関しては、解釈の言葉が必要であるかもしれません。キリスト教は教えの上に建てられるだけでなく、模範の上にも建てられます。神がご自身のみこころを啓示されたのは、命令を与えることによってだけでなく、召会の中で物事を行なうことによってでもありました。そうすれば、後の時代において他の人々は、ただその模範を見さえすれば、神のみこころを知ることができるのです。神がご自身の民を導かれたのは、ただ抽象的な原則と客観的な規定によってだけではなく、具体的な模範と主観的な経験によってでもありました。神は確かに教えを用いてご自身の民を教えられます。しかし、神が導く主要な方法の一つは、歴史を通じてであります。神はわたしたちに、どのようにして他の人々が神のみこころを知り、また行なったかを告げられます。こうしてわたしたちは、彼らの生活を見ることによって、神のみこころを知るだけでなく、それをどのようにして行なうのかも見るのです。神は彼らの生活の中で働かれ、神ご自身が願っているものを彼らの中に生み出されました。そして、神はわたしたちに彼らを見るよう命じておられます 。それはわたしたちが、神が何を求めておられるかを知るためです。
 それではわたしたちは、神がある事柄を命じられなかったので、わたしたちはそれを行なう必要がないと言ってもよいのでしょうか? もしわたしたちが、人に対する神の過去の対処を見たのなら、また神がどのようにご自身の民を導き、ご自身の召会を建造されたかを見たのなら、わたしたちは依然として神のみこころを知らないと言って弁解することができるでしょうか? 物事をどのように行なうかについて、子供にすべてのことをはっきりと教える必要があるでしょうか? 許される事柄と許されない事柄について、一つ一つの項目にわたって別々に述べなければならないのでしょうか? 自分の両親や兄姉を見さえすれば学ぶことのできる事柄が、多くあるのではないでしょうか? わたしたちは、聞くことよりも見ることによってもっと容易に学ぶのであり、そして印象もより深いのです。こういうわけで、旧約聖書と、新約聖書の使徒行伝において、神は非常に多くの歴史をわたしたちに与えておられるのです。神は、わたしたちが教えによるよりも模範によるほうが容易に学べることを、知っておられます。模範には、教えよりも大きな価値があります。なぜなら、教えは抽象的ですが、模範 は教えが実行されて有効であるとされたものであるからです。わたしたちはそれらを見れば、神の教えが何であるかを知るだけでなく、それらが成し遂げたことの目に見える証拠を持つのです。もしわたしたちがキリスト教から模範を取り除き、教えだけを残そうとすれば、残されるものはあまり多くありません。教えには教えの地位がありますが、模範にもそれに劣らない重要な地位があります。しかしながら、外面的な事柄を神聖な型にはっきりと一致させたとしても、もし内側の命がそれと一致していなければ、それは単なる形式にすぎません。
 終わりにわたしは、これは福音伝道の方法に関する本ではないという事実を強調したいと思います。方法を軽んじるべきではありませんが、神への奉仕においては、最も重要なのは人であって、人の方法ではありません。人が正しくなければ、正しい方法を用いても、彼にとって、あるいは彼の働きにとって役に立ちません。肉的な人には肉的な方法がふさわしく、霊的な人には霊的な方法がふさわしいのです。肉的な人が霊的な方法を用いても、その結果は混乱と失敗にほかなりません。本書は、十字架について何かを学んでおり、人の性質が堕落していることを知っており、肉にしたがってではなくその霊にしたがって歩くことを求めている人のために、書かれました。その目的は、すべての事柄にキリストの頭首権を認め、自分が選んだ方法によってではなく、彼ご自身が定められた方法によって彼に仕えることを求めている人たちを、助けることです。言い換えれば、すでにエペソ人への手紙の真理の良さの中にある人々のために、本書は書かれています。それは彼らが、コリント人への手紙の路線に沿って自分たちの奉仕をどのように表したらよいかを知るためです。どうか読者が本書を、自分たち の働きを外面的に調整するための根拠として用いることがありませんように。また、十字架に自分たちの天然の命を徹底的に対処させないことがありませんように。
 神の働きにおいては、すべてのことは、遣わされる働き人がどうであるか、また生み出される改心者がどうであるかにかかっています。改心者の側では、実際の聖霊による新しい誕生と、神との生き生きとした関係が決定的に必要となります。働き人の側では、個人的に聖であることや奉仕にささげていること以外に、神にゆだねることや神の主権ある摂理を信じることの意義について、経験に基づく認識を持っていることが決定的に必要となります。そうでないなら、用いる方法がいかに聖書的であろうと、その結果は空であり、失敗です。
 もし主がよしとされるなら、わたしは本書を、主がご自身の栄光のために用いてくださるようにとの祈りをもって、主とその民にゆだねます。

ウオッチマン・ニー
一九三八年一月
上海にて